戦壕の水


 空には、たくさんの爆発が渦を巻いて覆っています。
戦争が起こっていました。
そこでは、相手に襲われている兵士は逃げ惑うしかありません。
 醜く、血を流し地面に伏す前に、そこから逃げるために。
でも、一人の兵士は逃げ遅れてしまいました。
爆風を恐れ、縮こまっているうちに、取り残されてしまったのです。

戦壕の入口の前にも、爆風はやってきます。
でも、それから逃れるためにはここしかありません。
外では、たくさんの敵と味方の兵士が亡くなっているのですから。
怯えた目で、外を眺めていました。
そんな時、しとしと、音が彼の後から聞こえてきます。
水が一滴づつ滴っている音でした。
でも、その音が彼に近づいてくるのです。
不安な気持ちがさらに強くなり、ふと後を振り返りました。
すると、何かがそこに存在していたのです。
 暗い、何かの影が。

 神経が高ぶっていました。
恐れが、過敏に感じてくるのです。
必死に手元の銃を手に取り、それは火を噴き出します。鉛玉をその存在へぶつけて。
でも、その影はますます近づいてきました。
銃の引き金を引いても、もうこれ以上火も鉛玉も出てくることがないのです。
唯一命を守る、銃はもう使えません。
無駄だとわかっても、それでも必死にその影を撃退しようと懸命に引き金を引いていた時でした。
 入口からの日の光は、少女を照らし出しました。
あの兵士が恐れていた不気味な影は、小柄な少女の物でした。
不思議そうな大きな瞳で、兵士を見つめています。
あれだけ銃弾を浴びながらも、傷跡一つ持っていません。
 表情はあまりなく、無表情ではありましたが、恐怖に震えていた兵士の心を十分に癒す、優しさを感じさせました。
その少女が現れたために、あっけに取られ、兵士は思わず息をするのも忘れました。
 少女は何か不思議な物を見つめるような顔つきで、兵士を見つめます。
兵士もまた、息を殺し清楚な少女を見つめ返します。
そしてそのまま。
ずっとそのままで彼らはいます。
外の世界とは、別な時間が流れ始めました。
長い時間の後、そっと兵士は汚れた手で彼女の顔に触れました。
冷たく、気持ちよい感触でした。
なぜか髪から水が滴り、兵士の手を湿らしました。
その滴る水が、兵士に彼女が近づくのを教えたのでしょう。

 少女の存在は幻のようにも思えました。
なぜこんな所にいたのでしょう。
なぜ少しも銃弾による傷をついていないのでしょう。
そしてどうした訳か、服を着ていませんでした。
 でも、少女はそのまま、兵士を見つめていました。表情を全く変えないままで。
「一体なんで、こんな所にいるんだい?」
そう兵士が、彼女に話し掛けようとした時です。
戦壕の入口から、爆弾が飛び込んできました。それが爆発し、兵士は急激に傷を増やし彼女の足元に倒れ込みます。
少女は無傷でした。
いえ、兵士ほどでなかったにしろ傷は受けました。
でも、それを瞬時に治したのです。
 兵士は背から血を流しました。
それはどくとくと流れ、うめき声が戦壕の中木霊します。
少女は立ったままそれさえも不思議そうに見つめています。
少し時間が経ちます。
その情景のままで。
少女はしゃがみ込むと、手を兵士の背に当て、その手からは水が染み出してきました。

 兵士の気がついた時、少女はいません。
背の助かりようがないほどに傷ついた背は、傷跡も残っていません。
ただ、水たまりが身の周りに多くありました。

彼女の水でした。

それに彼は気が付きました。
 彼女は水だったのです。
癒す、水の体を持つ存在でした。
彼女は兵士の背を治しました。
背が、少しひとりでに動いたように感じました。
それは、兵士の背に少女が移動し、その傷口を塞いだのです。
少女は兵士の中に入り、少女は兵士の体になったのです。
もう、彼女はいません。

 少女は兵士の体から、出ては来ませんでした。
少女は、兵士の体の中で生き続けました。
兵士の体の中、少女はいます。
兵士と少女は共に生き続けたのでした。



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